英雄 運命の詩~正木一郎永世名人死去~
少し前の話になるが、競技かるたの正木一郎・永世名人が85歳で3月22日に亡くなっていたというニュースが入った。
(参照:朝日新聞)
正木永世名人というと、全日本かるた協会の初代名人。
昭和30年代には無敵の強さを誇り、
10連覇で初代永世名人に就いている。
「名人とは、自らが手本とならなければならない」との信念から、
全盛期の取りが出来なくなると、選手としては一線を退き、
晩年は専ら後進の指導に当たっていた。
横浜隼会で渡辺令恵永世クイーンを指導していた。
正木永世名人は、早稲田大学のOBということもあり、
早稲田大学かるた会にはいろいろと良くして下さっていた。
僕が現役時代にも何度か正木永世名人をお招きしての練習会などを催している。
僕は競技かるたの歴史にとても興味があったので、何度となく正木永世名人からは貴重な競技かるた創世記の話を聞かせてもらった。
(「日本競技かるた史(2)」参照)
正木永世名人は現役時代、京都の盛野兼広さんが最大のライバルで、
「もし盛野さんが名人戦に出ていたら自分の10連覇は無かっただろう」と語っていたのが印象的である。
その盛野さんとの試合では、「すべての札を決まり字より早く取った」のだそうだが、
僕にはどうしてもそれが信じられなかった。
だが、正木永世名人の全盛期を知る早稲田のOGは、
「それはすべて本当。若い人が信じてくれなくて悲しい。」と語っていた。
紛れもなく、史上最高のかるた選手の1人であったろう。
正木永世名人というと、毎年8月と3月に行われる職域・学生かるた大会での、辛口の講評が評判だった。
また、1月の横浜隼会大会では審判長を務められていた。
それが、数年前に高齢になったということで、それらを辞められてしまい、
あまり人前に出てこられることはなくなっていた。
僕が最後に正木永世名人を見かけたのも、数年前の横浜隼会大会でのことだった。
漫画「ちはやふる」のブームもあって、競技かるた会には若い人が増えている。
ほとんどの人たちは正木一郎永世名人のことは知らないのだろう。
だが、正木永世名人の遺したかるたへの愛情、情熱といったものは、
必ずや若い人たちにも受け継がれているはずである。
そして、それを次の世代へと伝えていかなければならない。
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