FLY HIGH~臨時休業中の学習~

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都立高校の5月末までの臨時休業延長が決まった。
これで、3月2日からちょうど3ヶ月間授業が無いことになる。
当然、夏休みよりも、3年生の授業しか持っていなかった年の3学期よりも長い期間で、こんなに長い間授業をしなかったのは、僕にとっても初めての経験である。


臨時休業がここまで長引いてくると、生徒の学習面でのケアがより大切になって来る。
生徒達にはすでに4月時点で自宅学習中の宿題が大量に課せられている。
また、臨時休業が延長になったことを受けて、5月末までの宿題が追加されることになった。
もちろん、それだけでは不十分である。
長期休暇の宿題を後回しにした経験は誰もがあるだろう(笑)

本当は週に1回でも登校日を設けて生徒と接する機会があった方が良いのだが、
緊急事態宣言が出ている解除されない限り、
登校日は設けられないことになった。

僕の勤務校では生徒全員が市販の学習用アプリ(Classi、スタディサプリ等)に加入しているが、
そのメッセージ機能を使って生徒と連絡を取っていくことになる。
また、アプリには講義動画などの学習用コンテンツもある。


僕の勤務校では、生徒に少しでも規則正しい送ってもらえるよう、臨時休業中の時間割を発表することになった。
基本的にはその時間に、その科目を勉強してもらうようにする。
学習アプリの通信機能を使って生徒からの質問や宿題の追加を行なうというもの。

一部の若手の先生は、自分の授業を録画してYouTubeに公開することにしたらしい。
僕も今後はそういった方法を考える必要があるかもしれない。


もちろん問題はまだまだ色々とある。
例えばネット環境は生徒によって異なっている。
場合によってはパソコンが家族共用で、しかも親がテレワーク勤務に使っていて、生徒が自由に使えないというような事もあるだろう。


しばらくは試行錯誤が続いていくことになるに違いない。




胡蝶の夢~臨時休業延長決定~

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3月2日から続いている都立高校の臨時休業が、5月31日まで延長されることが決まった。
4月8日に発令された緊急事態宣が5月31日まで延長されることを受けてである。
新型コロナウィルスの感染者数は減少傾向にあるとはいえ、依然高い水準にあり、僕も延長には異論はない。
ただ、そのやり方にはいろいろと不満がある。


愛知県の公立高校が4月23日に5月末までの臨時休業を決定したこともあり、都立高校の臨時休業が延長されるのも時間の問題かと思われた。
しかしながら、なかなかその決定が出ない。
当初の臨時休業の期限は5月6日。翌7日から授業を再開する予定であった。
5月2日から6日がゴールデンウィークの休日であることを考えると、どう遅くても5月1日には決定されていなければならない。

4月24日に東京都教育委員会は5月7日と8日に生徒を登校させない事を決めたのは、国の決定が出るまでの時間稼ぎではなかっただろうか。

4月28日、埼玉県が都に先駆けて公立学校の5月末までの臨時休業延長を決めた。
すでに茨城県、群馬県も5月末までの臨時休業を決めている。
ところが東京都は、連休中に延長の可否を決定するという、なんとも悠長なものであった。

結局、5月4日に非常事態宣言の延長が決まったことを受けて、5日になってから都立高校の5月末までの臨時休業延長が決定したのである。


それにしても、3月の臨時休業決定の時から、政府や都の決定は遅すぎるように感じる。
現場の事を考えて、どうしてもっと早く決定出来ないのだろうか。

そしてもう1つの懸念は、この先いつまで臨時休業が続くのかということ。
緊急事態宣言が解除されても、学校はもっと慎重にならなくてはならない。
噂では一学期いっぱい臨時休業が続くとの話もあるが、まったく見通しが立たない。


安倍首相は、5月14日に専門家会議の意見をもとに緊急事態宣言解除の基準を決めるという。
本来であれば4月8日に緊急事態宣言を発令した際に決めておくべきことではなかっただろうか。
一方では大阪府が5日に独自の基準“大阪モデル”を発表している。
それによると…
(1)新規の感染経路不明者数=10人未満
(2)PCR検査陽性率=7%未満
(3)重症者向け病床使用率=60%未満
この3つの基準を7日連続で下回れば、段階的に自粛要請を解除していくのだという。

国の基準も似たようなものになるのだろうか?
とにかく一刻も早く新型コロナウィルスが収束し、学校が再開できる日が来ることを願っている。


ヨセフとその兄弟~創世記9~

カナンに移り住んだヤコブたちであったが、ヤコブは息子たちのうちラケルの生んだヨセフをことの他かわいがった。
そんなヨセフのことを兄たちは嫉妬。
兄たちによって荒野の穴に落とされたヨセフは、イシュマエル人に売られエジプトに連れられて行ってしまう…。(創世記37)
(下の絵はオーファーベック「兄に売られるヤコブ」)

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「創世記」最後の主人公はヨセフである。
「創世記」にはカインとアベル、イシュマエルとイサク、エサウとヤコブと、兄と弟の確執が何度となく繰り返し描かれているが、ヨセフのエピソードにおいても彼と兄たちとの確執と和解が大きなテーマとなっている。


エジプトに連れていかれたヨセフは才覚を発揮してファラオから「宮廷の責任者」(宰相)に任じられた。
一帯が7年間の飢饉に見舞われた際も、ヨセフの助言によってエジプトは餓えることはなかった。
そこへヨセフの兄たちが助けを求めてカナンからやって来た。
兄たちは当初、宰相がヨセフであるとは気が付かなかったが、最終的にヨセフはその身分を明かす。
やがて父イスラエルをも呼び寄せ、一族はエジプトへ移住する。(創世記39~50)
(下の絵はポントルモ「エジプトのヨセフ」)

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「創世記」38章にはヤコブの兄ユダとその息子たちのエピソードが唐突に登場する。
ユダにはエルとオナン、シェラの3人の息子がいた。
エルはタマルと結婚したが、神の意に反したため殺されてしまう。
ユダは弟のオナンに「兄嫁のところに入り、(略)兄のために子孫をのこしなさい」と命じるが、その子が自分のものにならないと考えたオナンは、子種を地面に流してしまう。
そのためオナンも神の怒りを買って殺されてしまった。
その後タマルはシェラと結婚させてもらえなかったため、娼婦のふりをしてユダと関係を持ち双子のペレツとゼラを生んだ。(創世記38.1~38.11)

自慰行為のことを“オナニー”というのはオナンが子種を地面に流したことに由来している。
オナンがその行為によって神に殺されたことから、オナニーは罪悪であるとの考え方が生まれたようだ。
ただよく読むと、彼の行為は自慰ではなく外出しであるのだが…。


当時のユダヤ人は父から祝福を受けた“族長”がすべてを相続する「家父長制度」であった。
そのため、誰が後継ぎとなるかは大きな問題であったと考えられる。
「旧約聖書」には何度となく描かれる兄弟の確執も、そもそもは族長の座をめぐる争いだったと考えれば納得がいく。
ユダが長男の嫁に次男をあてがってでも子を生ませたかったということも、タマルが舅と交わってでもユダの子孫を生もうとしたことも同様の理由であろう。
また、オナンが兄嫁との間に子供を作りたくなかったのは、兄の子が生まれると、自身が父の後を継ぐことができなくなるからである。


アブラハムからイサク、ヤコブと代々引き継がれてきた族長は、ヤコブの12人の息子へ受け継がれた。
ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、イサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミンがそれぞれ12の部族(支族)の祖となった。
ただし、「民数記」冒頭で人口調査が行なわれた際にはそこにレビ族は加えられず、代わりにヨセフの子のエフライムとマナセの子孫が加えられている。
レビ族が除かれたのは「レビ人には掟の幕屋、その祭具および他の付属品にかかわる任務(民数記4.49)」があったからだという。
レビ族には土地が与えられない代わり祭司として儀式を行なう役割があった。
ちなみにモーセ(モーゼ)はレビ族の出身である。

後にイスラエル王国を築くダビデ王はユダ族の出身である。
「ルツ記」にペレツからダビデまでの系図が載せられている(ルツ記4.18~4.22)ように、「旧約聖書」の作者はユダ族をイスラエル人の正統と見做していたようだ。
だからペレツ誕生にまつわるユダ一家のエピソードが「創世記」に無理やり載せられているのである。
ユダが兄弟の中で一貫してヤコブに同情的に描かれているのも同様の理由だったのではないだろうか。


「創世記」はイスラエル民族がエジプトに移り住んだところで終わりとなる。
だがそれは、民族にとって新たな苦難の始まりであった…。
引き続き「出エジプト記」を読んでいくことにしたい。



ジェイコブス・ラダー~創世記8~

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イサクは妻リベカとの間に双子の子エサウとヤコブを設けた。
年を取り目が見えなくなったイサクは、長子エサウに祝福を与えようとした。
ところがヤコブはエサウのふりをしてイサクの祝福を受けることに成功。
エサウは激怒し、ヤコブは伯父ラバンの元へ逃げる。

ラバンの下でヤコブは財産を築き独立。
故郷に戻る旅の途中で神と格闘し勝利したことから“イスラエル”と名付けられる。
兄エサウとも和解し、イスラエルは12人の子供を設けた。(創世記27~35)


イサクの息子ヤコブは権謀術数に長けた人物として登場している。
ヤコブは、兄エサウから父の祝福を奪っている。
“祝福”とはおそらく、後継者としての立場を神の前で誓うことで、当時のイスラエル民族の間では重要な儀式であったのだろう。
それ以前にも、ヤコブは空腹のエサウにパンとレンズ豆の煮物を与える代わりに長子の特権を譲るよう迫っている。

兄イサクから逃げたヤコブは、伯父ラバンのもとへ滞在し、羊飼いとして頭角を現した。
やがてヤコブはラバンのもとから独立したいと考え、ラバンに報酬として「ぶちとまだらの羊をすべてと羊の中で黒味がかったものをすべて、それからまだらとぶちの山羊」(創世記30.32)」を求めた。
ラバンには白い羊と黒い山羊だけを残して、残りをヤコブが取るということであった。
黒い毛のある羊や、白い毛のある山羊は数が少ないうえに価値が低く劣っていたものと考えられていたのである。
ところが交配の技術にも長けていたヤコブは、強く黒い毛のある羊や、白い毛のある山羊を増やすことに成功。
結果的にラバンの財産のうちの多くをヤコブは手に入れることとなった。


そんなヤコブも、結婚の際にはラバンに騙されている。
ラバンにはレアとラケルの2人の娘がいた。
ラケルが「顔も美しく、容姿も優れていた(創世記29.17)」のに対し、レアは「優しい目をしていた(同)」とだけある。
ずいぶんと遠回しな言い方だが、レアはさほど容貌には優れていなかったのだろう。
ヤコブは妹のラケルの方を愛し求婚、ラバンもそれを承知した。
ところが、ヤコブが婚礼の翌日目を覚ますと隣には長女のレアがいた。
ラバンは「妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ(創世記29.26)」と語り、結局ヤコブはラケルに加えてレアとも結婚することとなる。
ヤコブはレアとラケルの2人の妻と、側女としてそれぞれの召し使いのジルパとビルハとの間に計12人の子を設けた。
その子供たちが後にイスラエル12部族の祖先となるのである。
(下の絵はダイス「ヤコブとラケルの出会い」)

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ヤコブの権謀術数は、その息子たちにも受け継がれていた。
ラバンのもとを去ってカナンへ帰る途中ヤコブ一行は、ヒビ人の町に立ち寄った。
その地の首長の息子シケムが、ヤコブの娘ディナを見初め、辱めてしまう。
そのことを知ったヤコブの息子たちは激しく憤った。
シケムの父ハモルがシケムとディナとの結婚を申し込んできたため、ヤコブの息子たちは条件として土地の男たちが割礼を受けることを提案した。
割礼とは、男性器の包皮を切り取ることで、現在でもユダヤ教徒にとって神との契約を示す重要な儀式である。
受け入れたハモルたちは割礼を施したが、それから3日目のまだ傷の癒えていない時に、ヤコブの息子たちが町を襲撃。
股ぐらを抱えて苦しんでいる男たちを皆殺しにすると、財産をすべて略奪したのである。


今回の件名「ジェイコブス・ラダー(ヤコブの梯子)」とは、家を逃げ出したヤコブが道中夢の中で見た天使が上り下りする天国まで続く梯子の事である(一番上の絵)。
この時神はヤコブに「あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう」(創世記28.14)と予言するのである。
この「ヤコブの梯子」は地上と宇宙を結ぶ巨大な軌道エレベータの事を指すことがある。
例えば「ガンダム Gのレコンギスタ」(2014~15年サンライズ/MBS)に登場する軌道エレベータ「キャピタル・タワー」のように、SFにはしばしば登場してくる。

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そう考えると、天国と言うものは案外宇宙に存在してたりするのかもしれない。


アブラハムの子~創世記7~

 アイヤー、ヨッ

作家・阿刀田高は「旧約聖書を知っていますか」の中で、イスラエルの族長の名前の覚え方をこう述べている。
アブラハムの子がイサク、その子がヤコブ、そしてその子がヨセフである。
我々日本人は聖書の人名になかなかなじみがないので、こうした語呂合わせがあるというのはあり難い。


今回紹介するアブラハムの子イサクは地味な人物である。
創世記25章でアブラハムが亡くなりイサクがその後を継ぐも、物語はすぐにその子のヤコブに移ってしまうからだ。
イスラエル民族の父アブラハムと、自ら「イスラエル」と名乗ってイスラエル12部族の祖となったヤコブの間に挟まれていてイサクは影が薄い。
鎌倉幕府執権の北条義時、室町幕府の足利義詮、江戸幕府の徳川秀忠…。
日本の歴史を紐解いてみても、2代目は初代や3代目に比べて影が薄いことが多い。
基礎を築いた初代と、全盛期の3代目に挟まれているからであろうか。


さて、そのイスラエル民族2代目族長のイサクであるが、有名なエピソードとしては、神が父アブラハムの信仰を試そうと幼いイサクを献げ者として差し出すよう命じるものがある。
信仰厚いアブラハムは神の命ずるまま刃物でイサクを屠ろうとするが、神は慌ててそれを止めさせる。(創世記22)
(下の絵はレンブラント「アブラハムとイサク」)

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後にイサクにはエサウとヤコブの2人の息子が生まれる。
成長したヤコブは、長子の特権が欲しいがためにエサウに成りすまして父イサクの祝福を受ける。
毛深いエサウに成りすますため、体に子山羊の毛皮を纏って目の不自由となったイサクを騙す。
イサクは「声はヤコブの声だが、腕はエサウの腕だ(創世記27.22)」と言いながらも騙されてしまうから、ずいぶんと間抜けでお人よしという印象だ。
(下の絵はフリンク「ヤコブを祝福するイサク」)

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イサクの業績としては多くの井戸を掘ったことであると聖書では述べられている。
父アブラハムがかつて掘ったもののペリシテ人によって埋められてしまった井戸を再び掘り直し、また新たな井戸を掘っている。
砂漠に生きるイスラエル民族にとって、水がいかに貴重であったかは想像に難くない。
井戸を持つということはその土地を支配するということでもあった。
イサクはアブラハムが神から与えられた「約束の地」を1つひとつ取り返していったということである。
地味だが大切な仕事である。
イサクはまさに「忍耐」の人物であったのだ。


確かにイサクは父アブラハムや息子ヤコブに比べれば地味なのかもしれないが、その間をつなぐ重要な人物であったといえる。



ソドムとゴモラ~創世記6~

創世記12章から主人公はアブラハムとなる。
アブラハムはノアの10代目の子孫であり、イスラエル民族(ユダヤ人)の族長(開祖)である。
つまり彼によってイスラエル人の歴史が始まったことになり、創世記のここからの記述は“神話”でなく“歴史”となる。
言わばアブラハムは聖書における神武天皇のような存在であるようだ。


アブラハムはもともとは「アブラム」と言った。
神の啓示を受け、妻のサライ(後のサラ)、甥のロトらと共に約束の地カナン(パレスチナ)を目指して旅立つ。(創世記12)

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(上の絵はバッサーノ「アブラハムの出発」)
聖書によると旅立った当時アブラムは75歳、妻のサライは65歳であったとされているが、これらの年齢はどうにもおかしい。
後々の物語を考えると、実際の年齢はその半分ぐらいだったように思われる。
例えばサラはその後エジプト王から「大変美しい(創世記12.14)」と思いを寄せられるのだが、これが65歳の老婆だとするとちょっと不自然である。
サラはその後も90歳の時に神の予言で息子イサクを産んでいる。
サラは神の予言を聞いて「自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし(創世記18.12)」と考えているのだが、実際の年齢が45歳だったなら出産も決してあり得ない話ではない。


いろいろと苦労があった末にアブラム一行はカナンへたどり着いた。
旅の途中で甥のロトは一行と分かれてソドムに住むこととなる。
エラム王ケドルラオメルがソドムを攻略した際、ロト一家は家財もろとも捕虜となるが、アブラムによって救出されている。(創世記13~14)

アブラムはロトを救出するために訓練を受けた奴隷318人を組織し、ケドルラオメルたちに夜襲をかけて撃退した。
これをもって、イスラエル軍の始まりとする説がある。


アブラハムのエピソードの中で最も印象的なのは、ソドムとゴモラの滅亡であろう。
アブラムの前に神の使者が現れ、重い罪ゆえにソドムとゴモラの町を滅ぼすことを告げる。(創世記18~19)

ソドムとゴモラの罪が何であったのかははっきりしないのだが、それは同性愛のような乱れた性であったように思われる。
というのも2人の神の使いがロトを救い出すためにソドムを訪ねた際に、町の人々は「今夜、お前のところへ来た連中はどこへいる。なぶりものにしてやるから(創世記19.5)」と叫んでいるからだ。
今日同性愛のことを“ソドミー”と呼ぶのはこのエピソードに基づいている。
(下の絵はファン・レイデン「ロトとその娘たち」)

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神の使いの導きでロト一家がソドムの町を脱出すると、天から硫黄の火が降り、町は滅びた。
逃げる際に後ろを振り返ってはいけないと言われていたが、ロトの妻は振り返ってしまったために塩の柱と化してしまう。
映画「天空の城ラピュタ」(1986年スタジオジブリ)ではラピュタの兵器がソドムとゴモラを滅ぼしたということになっているが、一説には核兵器であり、ロトの妻が塩の柱となったのも放射能の影響だという。


アブラムは99歳の時に神から「アブラハム」という名を与えられた。
“多くの民の父”という意味で、やがて彼の子孫がイスラエル民族となって発展していく。


ところで童謡「アブラハムの子」では、「♪アブラハムには7人の子 1人はのっぽであとはちび…」と歌われている。
聖書によるとアブラハムには側室ハガルとの間にイシュマエル、正妻であるサラとの間にイサク、後妻ケトラとの間にジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアを設けている。
全部で8人いるが、このうちイシュマエルは、サラによって母ハガルと共に砂漠に追放されてしまっているからノーカウント。
残る子供のうちイサクだけ歳が離れているため、「一人はのっぽ」と言われているのだろう。
童謡に目くじらを立てる必要はないのだが、「♪みんな仲良く暮らしてる…」と能天気に歌っているその頃、長男イシュマエルは砂漠で辛酸をなめていた。

しかし、アブラハムの死後彼の遺体を埋葬したのはイシュマエルとイサクであったと聖書には記されているから、
サラの死後イシュマエルとイサクは和解していたようである。
イスラム教ではイシュマエルの子孫がアラブ人になったとされる。
そのためイスラエルとアラブの対立の原因というのも、イシュマエルとイサクの確執にまで遡るという説がある。
しかし当の本人たちはとっくの昔に和解しているのだから、子孫たちも平和裏に対立を解決できないものであろうか。



バベル~創世記5~

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シンアルの地の平原に住みついた人々は、天まで届く塔を築こうとした。
それを見た神は、彼らがお互いに言葉を理解できなくした。
その結果、人々は世界各地に散らばっていった。(創世記11.1~11.9)


僕は海外旅行が好きなので世界各地に行くのだが、なぜ世界の言語はこうも違うのかと思うことがある。
以前、タイから陸路国境を越えてミャンマーへ渡ったことがある。
ほんの数メートル行っただけで言葉はもちろん、文字まで一変してしまうのだが、よく考えると不思議なことである。
そんな疑問に答えているのが「バベルの塔」のエピソードだ。

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バベルの塔は神話であるが、一部では史実を反映しているとも言われている。
なるほどイランのチョガ・ザンビールのジッグラト(聖塔/写真上)などモデルとなった建物は実際にあったのだろう。
この天高く聳えるバベルの塔は、その後も多くの芸術のモチーフとされた。
とりわけブリューゲルの絵画(上の絵)が有名である。

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また、ドイツ映画「メトロポリス」(1927年独)に登場する指令本部の建物(写真上)も、バベルの塔がモチーフとなっている。

横山光輝の漫画「バビル2世」(1971~73年)では5000年前に地球に漂着した宇宙人バビルが、ニムロデ王の協力のもとバベルの塔を築いたことになっている。
当時の人類の不注意で塔は爆発したが、その地下には宇宙人のテクノロジーが残されていた。
やがてバビルの血を受け継いだ少年がバビル2世となるのだが、バベルの塔はそのバビル2世の基地としてたびたび作品の中に登場する(下の絵)。
基地の発生させる人工砂嵐によって基地は発見されないということになっている。

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バベルの塔は、空想的で実現不可能な計画を比喩的に指して用いることもある。
また、バブル景気の時に建てられたものの、バブル崩壊によってそのままにされた高層ビルを「バブルの塔」と揶揄することもある。
聖書にはバベルの塔が崩壊したとの記述はないのだが、工事の中断された塔はいつしか朽ち果て崩れていったに違いない。
まさに1990年代日本を席巻したバブル景気と同じではないか。


バベルという地名の由来は神が「言葉を混乱(バラル)させ(創世記11.9)」たことによる。
映画「バベル」(2006年米)は、モロッコ(ベルベル語)、アメリカ(英語)、メキシコ(スペイン語)、日本(日本語)の4つの国を舞台とした物語が複雑に交差しあう。
モロッコ人兄弟、アメリカ人夫婦、日本人父子のそれぞれの確執を通して言葉ばかりでなく、心が通じない人々が描かれている。
つまり「バベル」という言葉は、お互いの意思疎通が不可能なことを指して象徴的に用いられるのである。



ノア・約束の舟~創世記4~

この地上に人類が溢れてくると、不法が満ち溢れ堕落が起きるようになってくる。
そんな人類を見て、神はこの世界を滅ぼそうと決める。
だが、ノアだけは神に従う無垢な人であったため、彼に命じて大きな箱舟を作らせた。
そして、すべての動物から1番ずつを箱舟に乗せた。

やがて40日40夜地上に雨が降り続け、この世のすべてを洗い流した。(創世記6~9)

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「ノアの方舟(箱舟)」のエピソードである。
「ギルガメッシュ叙事詩」にも同様の洪水が描かれており、一部は史実であったとも言われている。

聖書によると箱舟の大きさは長さ300アンマ、幅50アンマ、高さ30アンマで3階建てであった。
1アンマは45センチだから、長さ135メートル、幅22.5メートル、高さ13.5メートルとなる。
タイタニック号が長さ269メートル、幅28メートル、高さ53メートルだったから、大きさはちょうど半分ぐらい。
ノアと3人の息子だけで作り上げることもなんとか出来そうな気がする。

ではそこに、世界中のすべての動物を1つがいずつ入れることは可能だろうか。
世界中の動物の種類は、ほ乳類5,513、鳥類10,425、爬虫類10,038、両生類7,302の計33,278種類だそうである。
それが2匹ずつだから数は66,556匹。
箱舟の面積は3階建てだから計9,112平方メートル。
これを66,556で割ると1匹当たり0.14平方メートルとなる。
日本では鉄道の定員を乗客一人当たり0.35平方メートルとしているが、実際は200%を超える混雑もある。
また、動物の大半は人間よりも小さいサイズであることを考えると、乗せ切ることは決して不可能ではなさそうである。

次に食料の問題だが、乗せている動物の中にはライオンやトラといった肉食動物もいる。
それらの動物が箱舟の中の動物を食べてしまうと、その瞬間にその動物は滅亡してしまうだろう。
となると、他に食料用の動物を乗せなくてはならない。
その辺りの疑問は、映画「天地創造」(1966年米/伊)ではミルクを飲んでいたということになっている。
また、映画「ノア/約束の舟」(2014年米)では動物たちは眠らされていた。

実をいうとこの問の答えは聖書にきちんと記されている。
地上についたノアたちに神はこう言う。
「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらのすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。(創世記9.3)」
かつて天地創造の際にはこう言っている。
「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。(創世記1.29~1.30)」

つまり、ノアたちが洪水から再び大地に上陸するまでは、人も動物もすべてベジタリアンであったのだ。


アニメ映画「ファンタジア2000」(1999年米)でノアの箱舟を描いた「威風堂々」のエピソードには、つがいの動物たちが箱舟に向かっている中、ユニコーンやドラゴン、グリフォンが列に加わらずに笑って見ている場面がある。
なるほど、現在実在していない動物はこの時の洪水で滅んだということなのだ。
ひょっとしたら恐竜が滅んだ原因というのも、この時の洪水なのかもしれない。
確かに、全長22メートルものブロントサウルスを乗せてしまうと箱舟の容量のかなりの部分を占めてしまう。
そのためノアは恐竜たちを箱舟に乗せることができなかったのかもしれない。

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となると人類と恐竜とは、共存していたということになるわけだが、
実際ステゴサウルスと思しき彫刻のあるカンボジアのアンコール遺跡のタプローム寺院(写真上)や、首長竜のような絵が描かれたアマゾンのヤモン遺跡(写真下)なども発見されているので、案外そうだったのかもしれない。

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エデンの東~創世記3~

エデンの園を追放されたアダムとエバには最初の子供カインが誕生。
次いで、その弟アベルが生まれた。
カインは土を耕し、アベルは羊を飼う者となった。
時が経ち、カインは土の実り、アベルは羊の初子を神に献げたが、神はアベルの献げ者しか受け取らなかった。
嫉妬したカインはアベルを殺してしまう。(創世記4)

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(上の絵はティントレット「カインとアベル」)
カインは弟アベルを殺したことで人類最初の殺人者となった。
原因は神がアベルだけを依怙贔屓したことにあるのだが、なぜそうなったのかいろいろな意見がある。
イスラエルの民はもともと遊牧民であったため、神が遊牧民であるアベルの方を愛したのだとか。
あるいはそれ以前にカインが何かよからぬことをしたとか…。
映画「天地創造」(1966年米/伊)では、カインが献げ物を出し惜しみしたことが理由とされている。
いや、そもそも神がアベルを愛したのは神自身の意志であり、その理由は人間の及ぶべき事ではないということを表しているとの説もある。


いずれにせよアベルを殺した罪によってカインはその地を追われ、地上をさ迷う事となった。
カインは「わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。(創世記4.14)」と神に訴えてるが、
神は「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう(創世記4.15)」と答えている。
やがてエデンの東ノドの地にたどり着いたカインは「妻を知った(創世記4.17)」。
(下の絵はルーベンス「アベルを殺すカイン」)

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ここで僕には大きな疑問が浮かんだ。
以前宗教の勧誘の人を困らせた疑問である。
カインと「出会う者」って誰だ? 「妻」って誰だ?
というのもこの時点では全世界に存在する人類はアダム一家しかいないはずである。
そうなるとそれらの人たちもカインの弟や妹とその子孫でしかあり得ない。
アダムが930歳まで生きていたように当時の人類は長命であった。
だからカインも相当長い年月地上をさ迷い、その間に彼の兄弟の子孫が増え各地に広まっていったと考えることも出来る。
もっともカインが追放された時点では、彼の行き先に他に人はいなかったはずだから、
カインが出会う者に殺されることを恐れているのは不自然である。


いったいどういうことなのだろうか…。
ひょっとしたらこの当時、アダム一家以外にも人類が存在していたということなのかもしれない。
日本の「古事記」では、最初に地上に降りたイザナギ尊とイザナミ尊が天皇家の先祖として描かれている一方、それとは別に人類が存在しているようなのだ。
聖書が描いているのはあくまでイスラエル人の歴史であるため、
信仰のないイスラエル人以外は人とは認めてられておらず、聖書にも描かれなかったのかもしれない。


あるいは、当時は人類に似ていても人類ではない―ネアンデルタール人あるいは「はじめ人間ギャートルズ」のような“はじめ人間”たちが別にいたのかもしれない。
そんなギャートルズであれば、カインが恐れていたことも納得できる。
カインの妻も元はギャートルズだったのかもしれない。

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このカインとアベルの確執というものはその後も多くの文学に取り入れられた。
ジェフリー・アーチャーの小説「ケインとアベル」はテレビドラマ(1985年米)にもなった。
また、2016年には日本で「カインとアベル」というドラマが放送されている。
ジョン・スタインベックの小説でジェームズ・ディーン主演で映画化(1955年米)された「エデンの東」も有名である。

“エデンの東”とは、神に追放されたカインがたどり着いたノドである。
カインはこの地で息子エノクを設けている。


有島武郎の小説「カインの末裔」(1917年)はそんな罪を負った人の姿を描いている。
主人公の廣岡仁右衛門は北海道で働く農夫であるが、カインの業の故か、すべてを失い荒野をさ迷っていく…。
奥秀太郎監督の映画「カインの末裔」は、その有島の小説をヒントに、現代の川崎を舞台として展開する。
15歳で母親を殺し少年院で10年を過ごして出所した主人公が、一見善良そうな人々が織りなす不条理の中に埋もれ破滅していく…。
どちらも共に救いのない結末である。
カインの末裔は今なお浮かばれることのない人生を送っているのであろうか。

聖書において「カインの末裔」とされているのは、カインの6代目の子孫に当たるヤバル、ユバル、トバル・カイン、ナアマの兄弟である。
カインは神から「土を耕しても、土はもはやお前のために作物を生み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる(創世記4.12)」と告げられた。
そのこともあって、カインの子孫は農業でなく様々な技能を身に着ける。
ヤバルは家畜を飼う遊牧民、ユバルは竪琴や笛を奏でる演奏家、トバル・カインは道具を作る鍛冶屋の始祖となった…。

しかし残念ながら、これらのカインの末裔の技能は現代には受け継がれず途絶えてしまったようである。
というのも、カインの弟セトの8代目の子孫ノアの時代に大洪水で人類は滅びているからだ。



失楽園~創世記2~

神によって生み出されたアダムとエバはエデンの園で暮していた。
ある時蛇はエバを唆し、神によって食べることを禁じられていた「善悪の知識の実」を2人に食べさせた。
実を食べた2人は裸であることを恥ずかしく思うようになり、その行為を怒った神は2人をエデンの園から追い出した。(創世記3)
(下の絵はギュスターヴ・ドレ「楽園から追放されるアダムとエバ」)

AdamEvEExpelled.png

現在人類がこの地球上に満ち溢れている原因は、アダムとエバが犯した罪(原罪)のせいである。
神は2人に「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。(創世記2.16~2.17)」と語っていた。

してはいけないと言われたらしたくなるのが人間である。
開けてはいけないといわれた玉手箱を開けてしまった浦島太郎。
覗いてはいけないと言われた“つう”の機織り姿を覗いてしまった与ひょう。
「押すなよ!押すなよ!絶対に押すなよ!」と言っても結局押されてしまうダチョウ倶楽部の上島竜兵。
いわゆる禁忌譚は破られるためにあるというのが物語の定石である。


禁断の果実を食べた2人は知恵がついたが、その代償としてエバには「苦しんで子を産む(創世記3.16)」、アダムには「生涯食べ物を得ようと苦しむ(創世記3.17)」罰が与えられた。
(下の絵はマザッチオ「楽園追放」)

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この禁断の果実とは何なのか。
一般的にはリンゴとされている。
喉仏を「アダムのリンゴ(Adam’s Apple)」と呼ぶのは、神からとがめられて驚いたアダムの喉にリンゴが引っ掛かったからだともいう。
だが、実は聖書のどこにもその実がリンゴであるとは記されていない。
そもそもエデンの園のあったと推測される中近東では当時リンゴは栽培できなかったそうである。

他の説では禁断の果実はバナナやブドウ、トマト、ザクロであるともされる。
ちなみに僕はイチジクではなかったのかと思っている。
というのも、裸を恥ずかしいと思った2人はその直後にイチジクの葉で体を隠しているからだ。


ジョン・ミルトンの「失楽園」(1667年)では禁断の果実をリンゴとしており、それがリンゴのイメージの広まった理由だと考えられている。
以来、リンゴは性的な、官能のメタファーとしても多くの文学に取り入れられた。

例えば、島崎藤村の詩「初恋」。

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情に酌みしかな

林檎畑の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ


幼い少年が初めて恋の喜びを知るきっかけが、年上の少女によって手渡された禁断の果実であったというのも実に興味深いことである。